はじめに
江戸東京野菜とは

東京の街角にひっそりと残る野菜たち――寺島ナス、拝島ネギ、高倉大根。都市化で消えかけたこれらの江戸東京野菜は、土と人の記憶を今に伝える“生きた文化財”です。濃厚な味わい、独特の食感、育てる手間……そのすべてが希少価値となり、現代の食卓に特別な価値を届けています。
こうした“消えかけた種”を再び耕し、育て、食卓に届ける――。それはただの農業ではなく、都市の記憶を再構築し、土と人とのつながりを蘇らせる営みです。そして、その成果は希少であると同時に「価値あるブランド」へと育ちつつあります。
今回は、寺島ナス、拝島ネギ、高倉大根という三種の食材を通じて、「都市に残る土の記憶」と「現代の食卓におけるプレミアム」の交差点を探っていきます。
食材概要

●江戸東京野菜
・寺島ナス(てらしまなす)
東京・墨田区東向島一帯(かつての寺島村)で江戸時代から栽培されていた丸く小ぶりなナス。皮は艶のある黒紫、煮崩れしにくく、加熱でとろりとした食感が特徴。蔓細千成(つるぼそせんなり)ナスの系統。収穫期は6月初旬から10月下旬。
・拝島ネギ(はいしまねぎ)
昭島市(旧・拝島村)を主産地とする伝統の一本ネギ。白根部分が太く、青葉はやわらかい。生では辛味が強いが、熱を加えると甘味が増し、とろけるような食感になる。江戸東京野菜に認定。収穫期は12月初旬から3月下旬頃。
・高倉大根(たかくらだいこん)
東京都八王子市高倉町などを中心に栽培されてきた大根。大正時代に誕生した固定種で、干して漬物(たくあんなど)にすると特に良質とされ、かつては八王子の冬の風景として、軒先に大根を干す「大根干し」が広がっていた。収穫時期は11月中旬~12月下旬。
これらは単なる地場野菜ではなく、いずれも都市の変遷とともに「消えかけた風土」を蘇らせる“生きた遺産”だと言えます。
歴史・由来
寺島ナス

●江戸の町と消失、そして復活
江戸時代、現在の墨田区東向島周辺、かつての「寺島村」は、隅田川からの肥沃な沖積土に恵まれ、江戸市中に野菜を供給する近郊農村として栄えていました。なかでも寺島村のナスは質が良く、その丸く小ぶりな実と味の濃さから庶民に愛され、将軍の御前栽畑に供されたこともあるとされています。
1828年発行の地誌『新編武蔵風土記稿』にも、「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と記され、当時からその価値は高かったことがわかります。
しかし、関東大震災後に東京の再開発と宅地化が急速に進み、田畑は住宅地へと姿を変えていきます。かつての寺島村にも、畑の面影は消え、多くの農家が離農。寺島ナスは次第に姿を消し、いわば「幻のナス」となりました。
その状況が動いたのは2000年代。保存されていた原種の種子が、国のジーンバンクに残っていることが判明し、これを契機に「復活プロジェクト」が始動。2009年、地域の小学校(墨田区立第一寺島小学校)の創立130周年記念行事として、全校児童が寺島ナスを栽培。その成功が契機となり、徐々に都市近郊の農家でも栽培が再開されました。
現在では、小金井市など都下の農家を中心に栽培され、「江戸東京野菜」として再び流通するまでになっているのです。
拝島ネギ

●昭島の土と、失われかけたネギの香り
拝島ネギは昭和初期、茨城県水戸市から種を取り寄せ、拝島村(現在の昭島市の一部)で作付けが始まったのがルーツ。砂利質の土と傾斜地で、水はけがよく、ネギ栽培には適した地形でした。
かつては20軒ほどの農家が栽培していたといわれていますが、後に生産量の安定と管理の容易な他品種へと移行し、やがて生産者が減少。福祉農業や土地の市街化、固定資産税などの問題から、50年代以降徐々に衰退し、最終的には数軒の生産者にまで減少してしまいました。
しかし、平成19年(2007年)頃から、昭島市と地元農家が協力して復活を目指す動きが始まり、質の良い種の増殖と農家の再結集を行いました。そして平成25年(2013年)には、正式に江戸東京野菜への認定と、拝島ネギ保存会 の設立という形で復活が制度化されたのです。
近年は、保存会に所属する農家が増え、畑・直売所・学校給食への出荷などを通じて、少しずつ拝島ネギの名が知られ始めています。
高倉大根

●八王子の冬と、大根干しの風景
高倉大根は、大正10年(およそ1920年)頃に、ある八王子の農家・原善助 氏が、当時流通していた大根品種「みの早生」と「練馬尻細大根」を混作し、自然交配で得られた後代を選抜して育成したものだと伝えられています。
そののち、昭和20年代には「早太り練馬大根」に次ぐ第二の大根品種として商標登録され、特に干してたくあんなどの漬物に適することで人気を博しました。八王子周辺では、高倉大根を干す「大根干し」の風景が冬の風物詩として見られ、「八王子八十八景」のひとつにも数えられたといいます。
しかし、戦後の食生活の変化、保存食としての大根漬物の需要の減少、都市近郊の宅地化などで、次第に生産者は減っていきました。2016年の時点で生産者はわずか一軒になっていたとの報告もあります。
それでも、数少ない農家が固定種としての高倉大根を守り続け、「絶滅寸前」と呼ばれたこの大根は、今再び、関心を取り戻しつつあるのです。
栽培方法/生産工程

寺島ナスの栽培
寺島ナスは「蔓細千成(つるぼそせんなり)」という系列に属し、一般的なナスに比べて蔓(つる)も細く、背丈も低く、全体的にコンパクトな草姿になっています。
この性質のため、風で枝葉が揺れると、葉や枝が互いにこすれて傷がつきやすく、「大風・強風・猛暑・直射日光」など、気象条件に非常に敏感な品種です。そのため、栽培には細心の注意が求められます。
さらに、病害虫や高温障害にも弱く、近年の気候変動による暑さや不安定な天候が収量と品質に大きく影響するといいます。特に猛暑が続くと、花が付きにくかったり、実がついても落ちやすかったりするため、薬剤の使用も制限され、農家は自然農法的な対策やフェロモン剤などを使って害虫対策を行う場合もあるようです。
それだけに、育てる農家はごく少数。たとえば東京都小金井市で寺島ナスを栽培している農家は、記事執筆時点ではわずか数軒との報告もあります。
こうした手間とリスクを抱えながらも、農家たちは復活と継承に挑み続けているのです。
拝島ネギの栽培
拝島ネギの栽培は、まず毎年の種まきから始まります。播種は2月末から3月の彼岸ごろまでに行われ、育苗箱(たとえばチェーンポットなど)で苗を育てます。
その後、6月初旬から7月にかけて畑へ定植。根付きが安定するまでゆっくり育て、台風などの風・雨への備えも行います。拝島ネギは柔らかく、倒れやすく病害にも弱いため、土壌管理が重要で、たとえば米ぬかを混ぜ込んだ土を使い、細菌の繁殖を防ぐ工夫もされているのです。
収穫は主に冬。10月末から翌年の2月ごろまでがピークで、白根部分が太くしっかり育ったものが出荷されます。収穫後は土寄せと追肥によって根元を白く保っています。
また、拝島ネギ保存会では、2年に1度各農家が種を持ち寄り、それをブレンドして播種することで、遺伝的な多様性や品質の均一化を図っているといいます。地域ぐるみで「種をつなぐ」努力が続けられているのです。
高倉大根の栽培と干しの工程
高倉大根の育成は、まず大正期に固定種として確立された後、以降は種をつなぎながら、収穫 → 干し → たくあんなどの漬物という伝統的サイクルが受け継がれてきました。
この大根は、関東ローム層の赤土で水はけがよく、かつ適度な保水性を持つ土壌が適地とされています。八王子高倉のような高台の地形が、その栽培に適していました。
収穫後、大根は葉を取り除き、束ねて天日で干す。かつては冬の寒風にさらされながら、「大根干し」が地域の冬の風景だった言われています。これにより水分が抜け、風味と保存性が高まります。手間はかかるが、その分、漬物にした時の味の深みは、現代の大量生産大根では得難いものとなります。
現在では生産者が非常に少なく、干し工程を含めた伝統的な管理を維持するのが難しいとされています。しかし、固定種を守り続ける農家が、手間を惜しまず栽培と乾燥を続けているのです。
特徴
味と見た目、そして希少性に宿る価値
●寺島ナス

寺島ナスの最大の特徴は、「小ぶりで丸く、艶やかな黒紫の実」。その見た目はまるで宝石のようで、食卓に置くだけで存在感を放ちます。
しかし見た目だけではなく、肉質は引き締まり、皮は硬め。これにより加熱しても煮崩れしにくく、焼き、揚げ、煮る、炒める……どの調理でもしっかりとした存在感を保ちます。しかも熱を加えると中がとろりととろけ、旨味と香りがぐっと立ち上がり、その味わいは、現代の品種改良された「軽くてやわらかく、味が淡い」ナスとは対極をなす、濃厚で力強いナス本来の風味になります。
加えて、栽培難易度が高く、生産者がごくわずかであることから、市場に出回る量は極めて少なく、「幻のナス」「希少野菜」と言われる所以です。
こうした背景が、「寺島ナス=特別なナス」というブランド価値を生み、「江戸の味」を現代に伝えるプレミアム食材としての地位を確立しているのです。
●拝島ネギ

拝島ネギは、生ではピリッと辛く、薬味としてのキレのある香りが特徴的です。しかし、その真価は「熱を加えたとき」にあり――鍋、煮物、すき焼き、焼きネギ……。じっくり温められることで甘みが引き出され、とろけるような食感と深いネギの香りが広がります。これが、多くの料理人や食通たちから高く評価される理由になっています。
見た目としては、白根が太くしっかりとしており、青葉部分もやわらかく、丸ごと一本使っても食べやすい。葉まで食べられるやさしさも、家庭料理にはありがたいこと。
そして何より、拝島ネギは「復活が必要だったネギ」。一時は生産者がほぼ皆無となりましたが、保存会と地元農家の努力で蘇りました。そのドラマ性が、「希少性」と「物語性」を掛け合わせたブランド価値を高めているのです。
●高倉大根

高倉大根の魅力は、やはり「干すことで醸される味と風味」。干しの工程を経て水分が抜け、旨味と甘みが凝縮。漬物にしたときの歯応えと深み、そして保存性の高さは、今なお魅力的です。特にたくあんなどに加工すると、その良さは際立ちます。
見た目は、長大な根と豊かな葉を持ち、大根らしい潔さある姿。干される大根が軒先にずらりと並ぶ様は、都会の片隅ではあり得ない冬の風景――それ自体が、文化としての価値を持ちます。
そして、この大根もまた、極めて生産量が少なく、「絶滅寸前」と言われてきました。そこを、わずかながらも守り続ける農家がいます。「希少性」と「歴史の継承」という重みが、この大根に宿っているのです。
おすすめの食べ方

・寺島ナスの素揚げおひたし
寺島ナスを半分に切って軽く素揚げし、熱いうちにだし醤油に浸す。皮の硬さと実の締まりが揚げても崩れず、中はとろとろ。ナス本来の濃厚な旨味と香りが楽しめる一皿。
・寺島ナスの麻婆ナス
寺島ナスのしっかりした肉質と濃い味を活かし、麻婆ナスに。油をしっかり使い、ナスがとろりと溶ける食感と、香辛料や豆板醤の香りが融合する、力強い一品に。
・拝島ネギのすき焼き風焼きネギ
白根部分を厚めに切って焼き、甘みが出たところに割り下で絡める。ネギの甘さと香ばしさが肉や豆腐、キノコの旨味を引き立て、鍋の後の締めにも最適。
・拝島ネギのネギ味噌和え
葉先まで柔らかいため、刻んで味噌と和え、小皿で添えるだけで、白米や酒の肴に合う万能薬味に。
・高倉大根のたくあん漬け(干し大根)
収穫後、葉を落として干し、大根の水分を抜いた後、ぬか漬けや塩漬けでたくあんに加工。時間と手間をかけることで、深みのある香りとしっかりとした歯応えを持つ漬物に仕上がる。
・高倉大根のぶり大根
干しではなく、生の大根としても使えるので、ぶり大根に。根がしっかりしているため、煮崩れせず、だしを吸ってホクホクとした食感が楽しめる。
これらの料理法は、それぞれの野菜の個性を最大限に活かすものであり、単なる“古風な料理”ではなく、現代の食卓でもしっかり通用する“プレミアムな和の味”を生み出します。
生産者の想い
これらの伝統野菜を守り、育て続ける農家の人々の声には、強い覚悟と誇りがあります。以下に、その想いの一例を紹介します。
例えば寺島ナスを現在栽培している農家のひとり、萩原英幸 さんは、寺島ナスについてこう語っています(取材記事より要約)
「普通のナスと比べて育てるのが本当に難しい。でも、この土地で育てられてきたナスの味、香り、食感は、今の世の中にこそ必要だと思う」。Hills Life+1
拝島ネギ保存会に参加する農家のひとりは、
「自分たちが種を守らなければ、このネギは本当に消えてしまう。地域に根ざした野菜を、子どもたちや次の世代に伝えたい」と語っている。種のブレンドによる品質維持や、毎年の手入れ、土づくり、収穫、出荷、それらすべてに手間を惜しまない。Seed to Harvest
高倉大根を育てる八王子の農家、たとえば福島秀史 さん
「この大根を干す風景が八王子の冬には欠かせなかった。干し大根やたくあんが、女工たちの食卓を支えていた歴史がある。それをもう一度、現代に蘇らせる意味は大きい」と語る。たとえ生産者が少なくても、伝統を守り続ける覚悟がそこにある。BS朝日 マイナビ農業
こうした声は、単なる農業の話ではない。土地の記憶、人の営み、地域の文化――それらをつなぐ「使命」としての農。私たちがこれらの野菜を味わうとき、皿の上には、歴史と人の想いが刻まれているのです。
まとめ — 希少性とブランド価値としての「江戸東京野菜」

寺島ナス、拝島ネギ、高倉大根――いずれもが、かつては東京および近郊の人々の暮らしに根ざしていた野菜です。しかし都市化、食生活の変化、効率優先の大量生産──そうした時代の波の中で、消えかけ、あるいは本当に消えてしまった品種ばかりです。
だが、「土の記憶」を捨ててしまっていいのか。生産者たちはそう問いかけ、種を守り、土を耕し、再び世に出す努力を続けてきました。そして、その努力は単なる郷土愛やノスタルジーではなありません。「味」と「質」の価値を通じて、「食の多様性」と「地域のアイデンティティ」を再構築する、現代におけるひとつの挑戦です。
こうした野菜の希少性は、単なる“珍しさ”ではない。「歴史」「風土」「人の営み」「文化」の凝縮であり、それこそがブランド価値なのです。寺島ナスのとろけるような濃厚な味、拝島ネギの冬の鍋を豊かにする甘さ、高倉大根の干しと漬物に宿る保存性と旨味――それらは大量生産野菜では決して再現できません。
私たちがこれらを口にするとき、それは単に“食べる”ことではなく、過去と未来をつなぐ行為であり、都市の記憶を味わう行為であり、そして、種をつなぎ、土を守り、文化を継承する行為であります。
だからこそ、寺島ナスも、拝島ネギも、高倉大根も――ただの“珍しい野菜”では終わらない。
プレミアムであり、価値ある“食の遺産”なのです。
今回はこちらの3種の野菜を紹介しましたが、江戸東京野菜はまだあります。また紹介していきますのでお楽しみに。
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参考文献一覧
| 種別 | 出典 |
|---|---|
| 行政/団体資料 | JA東京中央会「江戸東京野菜について」サイト(寺島ナス、拝島ネギ、高倉ダイコン 各項目) JA東京中央会 |
| 専門記事・ウェブ記事 | 全国農協観光協会「江戸の記憶を今に。幻の「寺島ナス」が彩る豊かな食卓と心繋がる物語」 全国農協観光協会 すみだ経済新聞「伝説の江戸野菜「寺島なす」-農家のいない墨田区で復活プロジェクト」 すみだ経済新聞 ヒルズライフ「〈Dining33〉が大事にするローカル食材。寺島ナスを求めて東京・小金井へ」 Hills Life Seed to Harvest「甘さと強い香りが美味しい!葉まで楽しめる伝統野菜「拝島ねぎ」@東京都昭島市」 Seed to Harvest マイナビ農業「絶滅寸前の高倉ダイコン復活 未来へ向けて再生する江戸東京 …」 マイナビ農業 |
| その他情報源(書籍、地誌) | 『新編武蔵風土記稿』(1828年)における寺島ナスの記述 — via資料の紹介記事より 東京新聞 |



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